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仁宗(じんそう)は、北宋の第4代皇帝(在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日)。 1022年、父真宗の崩御に伴い即位した。英邁な資質を持った皇帝とされ、富弼や文彦博をはじめとする人材を多く登用した。 当時は文治主義に偏重して軍事力が弱体化しており、西夏などの圧迫を受けるなど、対外的には危機的な状況が続いていた。仁宗は宋の常備軍の強化などの軍事力の増強を行なう一方で、西夏や遼に対しては銀をはじめとする貢物を贈ることで友好関係を維持する外交を展開した。しかしこの財源を確保すべく、重い賦税を民衆に強いることとなり、農村の荒廃と民衆叛乱を引き起こしている。 不安が高まる社会を改革すべく、改革を求める党派も出現し、後の新法・旧法の争いに代表される権力闘争の原型を形成した時代でもある。 1063年、嗣子が無いまま病死し、従甥にあたる英宗が帝位を継いだ。 仁宗の治世の時代は、慶暦の治と称されている。 == 家族 == === 妻妾 === *皇后(浄妃)郭氏、温成皇后張氏、 光献皇后曹氏、皇后(美人)張氏〔『皇宋長編紀事本末』〕 *昭懿貴妃張氏〔『宋会要輯稿』〕、昭節貴妃苗氏(仁宗の乳姉妹)、昭淑貴妃周氏 *徳妃楊氏、充儀尚氏、貴妃董氏、賢妃馮氏、徳妃俞氏、充儀朱氏 *美人余氏〔『朝野遺事』:余美人と尚美人は聞えがよしの悪口を言って殴り合いを始めた。仁宗はけんかに割って入って、殴打を受けた。その後、余氏を軟禁してしまった。〕、彭城県君劉氏〔、安福県君張氏〔『故董淑妃養女御侍張氏安福県君依旧御侍制』〕、仁和県君李氏〔『故董淑妃養女御侍李氏仁和県君依旧御侍制』〕、楊易行〔仁宗時代の封号の詳細は不詳。その後、洞真宮に出家した。元豊4年5月17日、神宗により法正の職に任ぜられ、志静大師の道号を贈られた。〕、御侍景氏、御侍黄氏〔封号の詳細は不詳。妃嬪の中でも最も傲慢不遜という。嘉祐4年7月、民間に追い出した。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁宗 (宋)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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